top > 次郎の東京を巡り尽くす Vol.0007



皆さんこんにちは。次郎です。今回は東京から少し足を伸ばして、9月に開催された浦和の見沼代用水と芝川を歩くオフのレポートを紹介したいと思います。

今回は、朝9時に南浦和駅を出発し街歩きスタート。まず最初は浦和競馬場を目指して歩きました。 この辺りは、高校の頃に通学で武蔵野線を使っていたので電車で通過したことは多くありましたが、じっくりと歩くのは初めてです。 また、この辺りは非常にアップダウンの多い地形であることは、武蔵野線の車内からもよく分かりましたが、実際に歩いてみることで改めてアップダウンが 多いことを実感させられました。そして、この辺りは「谷」だとか「窪」といった字がつく地名が多いですが、これもその地形に由来するものらしいです。

10数分歩いて浦和競馬場に到着。ここは地方競馬の中でも有数の規模を誇る競馬場で観客席などの設備も立派ですが、 競馬場のコースの中央を藤右衛門川が横切っていたり、競馬開催日以外はコースを横切って中を歩くことができたりするのが面白いです。 レース開催時には実際に馬が駆け回るダートコースの中を歩くのはなかなか貴重な経験だったのは言うまでもありません。 浦和競馬場を横切った後は、藤右衛門川を武蔵野線との交差地点まで南下し、柳橋、大谷場橋、上狐橋を見ました。 競馬場横に架かる柳橋は、橋の銘板が蹄鉄を象ったデザインになっているのが面白かったです。



その後は、武蔵野線沿いの県道さいたま草加線と産業道路を歩いて、県内産食材などを使用したアイスクリームなどを売る店「グリーンワゴン」に立ち寄って、 アイスを食べました。私が食べたのはとうふアイスでしたが、あっさりとした味がなかなかよかったです。 次いで、川口市との間にまたがる上谷沼調整池を見学。普段は調整池の部分に水は溜まっていなく、グラウンドとして開放されていますが、 大雨時には増水した藤右衛門川の水を一時的に貯留して水害を防ぐようになっています。 調整池の周りは桜が沢山植わっているだけに、 ここは4月頃に訪れるといいかもしれませんね。



調整池を見終えた後は、銭湯・富美の湯、見沼代用水西縁の坂下橋を通過して見沼代用水西縁と藤右衛門川の立体交差を見ました。 ここでは見沼代用水がトンネルで地下に潜り、藤右衛門川と立体交差しています。これは伏越(ふせこし)と呼ばれるサイホンの原理を応用した技術で、 見沼代用水では色々なところで用いられているそうです。ちなみに以前は、見沼代用水ではなく藤右衛門川のほうが下をくぐる伏越になっていたそうですが、 近年になって河川環境の変化で藤右衛門川の流れが悪くなって洪水の原因になったり悪臭が発生するなどの問題が発生したため、 21世紀に入ってから逆に見沼代用水が下を通るように改良されたそうです。



その後は、藤右衛門川下流部の親水緑道、暗渠にかかる風間橋、八木崎橋、暗渠の出口を通過して見沼代用水西縁に出ました。

次いで、六ヶ村用水との分岐点、後町橋と進みましたが、この辺りは見沼代用水が崖に沿って流れているため、用水路が非常に曲がりくねっているのが特徴です。 曲がりくねったところを抜けた辺りで東浦和駅南通りに出て、昼食は中野牧場というとんかつ店に入りました。 ここは、ステーキガストなどと同様にバイキング形式となっていて、ご飯やカレー、惣菜、サラダ、味噌汁、アイスクリーム以外のデザート、 酒類以外のドリンクがフリーとなっていました。ロースカツを頼んだのですが、一度に大人数で入ってしまったせいかカツが出てくるのが遅く、 待っている間にカレーやサラダなどを食べ過ぎてしまいました。

午後は、まず最初に竹やぶの中にある見沼通船堀公園を見て、女体新橋、附島氷川女体社、大間木稲荷神社、鈴木家住宅を見ました。 鈴木家住宅は、江戸時代の享保年間に見沼の干拓事業に携わって運河である通船堀の管理を任されていた家で、家の創建年代もその頃と推定されます。 家の中自体は現在も住んでいるため見ることはできませんが、裏手にある蔵などが小さな資料館として開放されていて、 各種資料や復元された当時の船などを見ることができました。



その後は、芝川の八丁橋、八丁堤に出てから、見沼通船堀東縁沿いを歩きました。通船堀とは見沼代用水西縁と芝川と見沼代用水東縁を繋ぐ運河で、 東西の見沼代用水よりも低い位置を芝川が流れていて、それぞれの河川の間に高低差があるため、 閘門で仕切って水位を上げ下げして船の通行を可能にしたもので、あのパナマ運河でも、太平洋と大西洋の間に高低差があるために同様の方式が 使われているとのことです。後年使われなくなってからは荒廃してしまっていたそうですが、平成に入ってから復元されて、 数年前からは実際に閘門を使って通水する実演も行なわれているとのことです。この通船堀を、見沼代用水東縁との合流地点まで進みました。



ちなみに、見沼代用水東縁は下流まで進んでいくと、日暮里・舎人ライナーの終点の見沼代親水公園にたどり着きます。 また、鈴木家住宅の前や八丁橋を通る県道吉場安行東京線(安行街道)は狭い道路ですが、このまま南下していくと、川口市や草加市を経て足立区内に入り、 尾竹橋通りと名前を変えて町屋駅前を通過して都電を横切って日暮里方面まで延々と続いています。 「線路は続くよどこまでも」という歌がありますが、小さい道路や河川も、どこまでも続いているのですね。 また、実家がこの安行街道の近くだったため、中学生か高校生くらいの頃に自転車で延々この道を北上して東浦和まで行ってみたことがありますが、 当時は通船堀の復元前だったこともあってか、その存在は全く知らなかったし、鈴木家住宅も目の前を通っているはずなのに、 その存在に全く気が付かなかったです。それだけにまさに再発見でした。 通船堀を見沼代用水東縁との合流点まで進んだ後は着た道を引き返し、途中で猫写真も撮影。次いで八丁橋際の水神社を見て、 今度は通船堀西縁沿いを歩きました。西縁のほうにも東縁と同様の閘門があります。

見沼通船堀を見終えた後は、東浦和駅を通過して明の星学園に向かいました。明の星学園といえば、首都圏ではトップクラスの私立女子校で、 私の時代は中学がなかったため高校から入れましたが(但し偏差値70超!)、今は完全に中高一貫教育になっているそうです。 今回はちょうど学園祭(保護者や受験希望者は入れるけど部外者は原則立ち入り禁止)の最中でしたが、たまたま参加者にOGがいて、 その方がなんと直接校長先生に交渉してくれて特別に入場許可が出ました。カトリック修道院の系列で厳しい学校だそうですが、 そんな学校がよく私たちに許可を出してくれたものです。但し、生徒が写る可能性のある場所での撮影禁止という条件付きでしたが、 生徒のいないチャペル内だけは撮ることができました。





その後は、武田信玄の次女で、家臣・穴山梅雪の正室で、徳川秀忠の四男・保科正之の育ての親だった見性院の墓や、 江戸時代の天明・万延年間に造られた351基もの庚申塔がある清泰寺、大間木氷川神社を見ました。







最後は、明の星学園グラウンド横を流れる見沼代用水西縁を歩いて、建設中の芝川第一調節池を見ました。 ここは、かつてはのどかな田圃が広がっていたそうですが、現在は調節池の工事でショベルカーなどが行き来しています。 最後は、調節池工事看板前の大牧学校橋の前で街歩きは終了となりました。 終了後は赤羽に移動して打ち上げとなりました。赤羽はうちから近いこともあって、普段だったら1軒だけお邪魔して帰ってしまうところを 3軒も行ってしまいました。おかげで普段よりも飲んだ量が多かったですが、幸いにも気持ち悪くなったり2日酔いをしたりということはなかったです。

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